佐藤光雄(技術士:機械、宮城県)
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 2019/11/20 (6 ヒット)

 徳川光圀は、家康の孫で2代目の水戸藩主であり、「水戸黄門」のモデルである。光圀は実際には「諸国漫遊」はしていないし、「天下の副将軍」でもない。江戸時代後期以降、講談や歌舞伎の題材として水戸黄門さまの漫遊記が大衆的人気を獲得した。昭和においては多数の映画がつくられ、テレビ時代劇も大人気となった。徳川三つ葉葵紋の印籠を見せて「控えおろう、この紋所が目に入らぬか」の名文句がテレビで誕生した。モデルとなった印籠は実在する。また助さん格さんもモデルが実在した。光圀に代わり全国を調査して歩いた学者の佐々と安積の二人とされる。「水戸黄門」は創作物であるが、光圀の大きな業績は歴史書「大日本史」の編纂である。その生涯をかけて取り組んだ。光圀は1700年に西山御殿で73歳の生涯を閉じたがその後も編纂は続けられ、明治39年に、250年をかけて完成した。私になじみ深いのはTBSテレビ東野英治郎の水戸黄門である。


 2019/11/17 (7 ヒット)

 「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界遺産になった。構成するのは12の集落や教会である。日本では250年もの間キリスト教が禁じられていた。こうした禁教の間もひそかに信仰を守り抜いたのが「潜伏キリシタン」である。島原半島の原城跡で悲劇があった。1637年の島原天草一揆である。2万人を超すキリシタンが幕府軍に殺された。潜伏キリシタンたちは、表向きは仏教徒をよそおい観音像を聖母マリアに見立てて祈った。平戸も潜伏キリシタンが多く住んだ。祈りの対象としたのが安満岳で、中腹にある神社の裏側の小さなほこらを「奥の院」として祈った。潜伏キリシタンの間に口伝えで伝えられてきたのが「オラショ」である。唄オラショはスペインの古い聖歌に由来するという。今日のキリスト教とは異なる日本独自の信仰を続ける人々が「かくれキリシタン」である。長崎の大浦天主堂は幕末に外国人向けに建てられた教会であるが、ここで1865年に奇跡が起きた。マリア像の前で10人余の日本人が外国人神父に信仰を告白したのだ。250年もの禁教により日本にはいないと思われていたキリシタンが現れた奇跡だった。


 2019/11/15 (7 ヒット)

 温度を表す数値では、スウエーデンのセルシウスによって作成された「セ氏温度(℃)」が一般的だが、学術的には絶対温度(ケルビン)が使われる。「セ氏温度(℃)」は、水の凝固点を0℃水の沸点を100℃として、その間を100等分したものであった(現在の定義は違う)。物体の温度を計測する方法には、直接触れる「接触式」と触れずに測れる「非接触式」とがある。水銀温度計や熱電対などは接触式である。工業分野でよく使われるのは熱電対であり、電気信号として取り出せるメリットがある。非接触式では、赤外線を利用する方式(サーモグラフィ等)が知られる。全ての物体は温度に応じた赤外線を放出しているので、それを利用する。それとは別により高温を計測する非接触式が、「パイロメーター」というもので熱放射を感知測定する。白熱している物体の色温度を計測するもので、溶鉱炉など特に高温の場合(700℃以上)に用いられる。物質はその温度に応じてさまざまな波長の光を放出しており、その波長分布から計測する。


 2019/11/11 (16 ヒット)

 「白地で中央に赤い円」というシンプルで美しいデザインの国旗「日の丸(日章旗)」は、日本人にとってきわめて親しみやすいシンボルである。日本人は神話の時代から、太陽神天照大神をいただき「日出ずる国」と称し自己認識してきた。あらゆる自然と同様太陽も神であった。文献に記載された最初の日の丸は、約1300年前文武天皇時代に朝廷の行事で用いられた「日像」だとされる。平安末期の源平合戦では、源氏が「白地に赤丸」の旗を掲げて戦い勝利した。鎖国の江戸時代にも幕府公認の東南アジア向け貿易船があり、その船には印として日の丸を立てて航海していた。幕末に外国船が盛んに来航するようになると、自国の船の印が必要になり、水戸藩主徳川斉昭が「日の丸」を主張して採用された。日の丸が正式に日本の国旗になったのは、ごく最近のことで平成11年である。実は日の丸の旗には規定がある。旗の縦横比は2対3で、縦の長さの5分の3を直径とする円を紅色で中心に配置するというもの。


 2019/11/09 (17 ヒット)

 東京都に属する小笠原諸島が、米国の施政権下から変換されて50年になった。東京都中心からの距離は約1000キロもある。今は父島と母島に約2600人が住んでいる。2011年に世界自然遺産に登録された。亜熱帯の自然を目当てに、年に約3万人の観光客が訪れる。だが約6日に1本の定期船が父島へ渡る唯一の公共交通である。飛行場の建設計画も何度か出たが環境問題などから実現していない。小笠原諸島は無人島だったが、1830年に捕鯨の補給基地として欧米など出身の20数人が住み着いたのが始まり。1861年に江戸幕府が領有を宣言し、1975年明治政府が開拓を開始した。太平洋戦争戦時中に島民は強制疎開で島を出た。1945年に米海兵隊が硫黄島に上陸し、激戦が展開されて日本側死者は2万1000人を超えた。硫黄島と北硫黄島については、今も島民の帰還は許されていない。戦前には硫黄島に、村役場や小学校や飛行場もあった。現在硫黄島には海上自衛隊の基地があり、米海軍も使用している。


 2019/11/06 (20 ヒット)

 ヒトが生きていくために必要な「ビタミン」として、現在は13種類が知られている。ビタミンの名前はほぼ発見された順番にアルファベットがふられた。ビタミンB群については、1つのグループにまとめられて数字をふって細分された。13種類のビタミンとは、脂溶性がA、D、E、Kで、水溶性がB1、B2、B6、B12、C、ナイアシン、葉酸、パントテン酸、ビオチンである。ビタミンはそれぞれ複数の機能をもっている。ビタミンはほとんどが体内で合成できないが例外がDとKである。ビタミンDは太陽の紫外線を浴びることにより皮膚細胞で合成される。ビタミンKはヒトの腸内細菌によって必要量の半分ほどが合成される。かつて大航海時代に「壊血病」で多くの船乗りたちが命を落とした。新鮮な野菜を摂取できずビタミンCが欠乏して引き起こされたが、当時はまだ原因不明だった。長期にビタミンB1が不足すると「脚気」になる。江戸時代に白米ばかり食べていた武士に比較的多かったことから「江戸わずらい」と呼ばれた。


 2019/11/01 (30 ヒット)

 2015年の糖尿病患者数は全世界で4億1500万人にもなるという。糖尿病は、飽食の時代が生んだ比較的最近の病気である。糖尿病とは、血糖値が一定の基準を超えていることを示す疾患で、ヒトの血糖値は通常ホルモンの働きによって非常に狭い範囲に保たれている。食べ物として摂取した炭水化物は、胃や腸などで分解されてブドウ糖(グルコース)になり血液中を流れる。この血液中を流れるグルコースの量を「血糖値」という。血糖値が上がりすぎないように、ホルモン「インスリン」によってコントロールされている。血液中のグルコースは、インスリンの働きで筋肉や脂肪の中に取り込まれる。糖尿病には、「1型糖尿病」と「2型糖尿病」がある。1型は膵臓が壊されてインスリンを分泌できなくなることで発症する。2型は暴飲暴食や運動不足が、過剰な脂肪組織を蓄積させ、血管内のグルコースが細胞内に取り込まれなくなり、インスリンの分泌が異常になって、血管内に大量のグルコースとインスリンが含まれてしまい、結果的にインスリンの分泌がなくなって発症する。糖尿病患者全体の90%以上が「2型糖尿病」である。


 2019/10/30 (26 ヒット)

 ワールドカップロシア大会が始まった。さてそのサッカーボールだが、1960年代まではバレーボールに似た外観の白色ボールが一般的だった。それが黒の五角形パネル12枚と白の六角形パネル20枚で構成された白黒ボールが登場した。そして1970年のメキシコ大会からこの白黒ボール(テルスター)が採用された。これはドイツのアディダス社が開発したもので、以来W杯の試合は同社のボールが「公式球」となっている。1986年のメキシコ大会からは牛皮に変わって人工皮革が使われるようになり、耐久性と吸水性が改善した。2006年のドイツ大会ではそれまでの手縫いから熱によるパネルの接合技術に変わり、パネル枚数は8枚になった今年のロシア大会のテルスター18は、パネル枚数は6枚で形が手裏剣のような複雑なものになっている。また電子チップが内蔵されているらしい。ちなみに現在世界で生産されている手縫いのサッカーボールの7~8割はパキスタンで製造されているらしい。


 2019/10/27 (38 ヒット)

 日清戦争に勝利した日本は、明治24年製鉄所の建設を開始した。そして1901年に官営製鉄所として操業を開始したのが、北九州市の八幡製鉄所である。多くのドイツ人技師を雇用してのスタートだった。なお国内初の製鉄所は釜石鉱山田中製鉄所である。第二次世界大戦の前までは、八幡が日本の鉄鋼生産量の過半を占めていた。1934年には八幡が中心になって釜石鉱山などの民間業者と合同で「日本製鉄(にほんせいてつ)」となった。終戦後の1950年に財閥解体で解体され、八幡製鉄、富士製鉄など4社に分割された。八幡製鉄と富士製鉄は1970年になって合併し新日本製鉄(新日鉄)となった。1952年から住友の名前を冠した住友金属工業は、新日本製鉄、神戸製鋼所と3社で資本提携して、2012年には新日本製鉄と合併し国内最大手の鉄鋼メーカー「新日鉄住金」となった。その新日鉄住金がこのたび、社名を「日本製鉄(にっぽんせいてつ)」に変えることにした。世界とたたかうために。


 2019/10/25 (28 ヒット)

 歴史上の建造物の中で最大の木造建造物群、それが「中国の紫禁城」である。これは北京の中心部にベルサイユ宮殿の10倍という広さで、900の建造物からなる。歴代皇帝の住まいとして、何世紀も外界に対しては閉ざされてきた。紫禁城は、明王朝の永楽帝によって建造された。永楽帝は1402年の内戦により皇帝になった人物で強大な力を誇った。10万本のクスノキ、8000万個のレンガ、などの資材と100万人以上の労働力の犠牲のもとに、1420年に紫禁城は完成した。最も大きな建物は大和殿であるが、火災により7回も建て直しされた歴史を持つ。皇帝のみが通れる「龍陛」は見事なもので、長さ10mもの一枚岩に龍が手彫り彫刻されている。永楽帝は紫禁城完成のわずか4年後に戦地で亡くなった。その後500年の間に23人の皇帝がここから中国を治めた。1925年紫禁城はついに一般に公開された。


 2019/10/22 (44 ヒット)

 1853年のペリー来航よりも100年以上前の1739年、千島列島を測量南下してきたロシア船が、鎖国中の日本沿岸に達して日本人と物々交換を行い上陸までしていた。1778年にはロシア商人の船が根室に現れ日本に通商を求めたが、松前藩はこれを拒絶した。1792年には日本の漂流民大黒屋光太夫ら3人を乗せて、ロシア使節のラスクマンがエカチェリーナ号で根室湾にやってきて通商を求めた。ラスクマンはロシア皇帝の命で派遣された正式な外交団であった。大黒屋光太夫は、伊勢の千石船の船頭であったが、遭難し7か月の漂流の末にアリューシャン列島でロシア人に保護された。乗組員17人中12人はロシアで亡くなり、2人はロシアに残った。それまで海外の情報は、長崎を通じてオランダ人たちによってもたらされていたが、大黒屋光太夫の証言は、ロシアや欧米のより正しい生の情報であった。ロシア使節プチャーチンが和親条約締結で長崎に来航したのは、ペリー来航の直後であった。


 2019/10/20 (27 ヒット)

 油圧ショベルやクレーンやブルドーザーなど、巨大な力で作業をしている「重機」は、今や工事現場などになくてはならない存在だ。どのようにしてあの巨大なパワーを出せるのだろうか。その秘密は「油圧」にある。非圧縮性に優れた油(オイル)を用いて、「パスカルの原理」により動力の力を伝えている。フランスの科学者パスカルは、容器に閉じ込められた気体・液体の圧力の大きさは容器内のどの点でも等しいことを発見した。これが「パスカルの原理」であり、容器の一部に加えた力はすぐに均一化伝達されるのだ。ディーゼルエンジンによって駆動される高性能の油圧ポンプによって「油圧」は生み出される。重機では、「アーム動作」はもちろん、「旋回動作」も「走行動作」も油圧によって行われている。重機がゆっくりと走るのは油圧モーターのパワーによる。アームを動かすのは油圧シリンダーである。油圧なので環境条件が厳しい場所でも影響を受けにくい。油圧制御弁をうまく操作制御して全ての動作が細かくコントロールできる。油圧はホースによって重機の各部に送られる。重機のメーカーでは、コマツ、日立など日本企業が世界でも高く評価されている。


 2019/10/17 (38 ヒット)

 2018年5月、キヤノンが創業から80年間続けてきた「フィルムカメラ」の出荷を停止した。最後まで残ったのがEOS-1v。カメラ好きな青年吉田五郎が国産高級カメラを作りたいと思い、ライカⅡ型を手に入れて分解し国内生産も可能と判断。義弟の内田三郎に相談して1933年、東京六本木に「精機光学研究所」を立ち上げカメラ研究を開始したのが「キヤノン」の始まりである。1936年に国産初の35ミリフォーカルプレーンシャッターカメラ「ハンザキヤノン」を発売した。1937年には「精機光学工業(株)」を設立。その際監査役になったのが、産婦人科医師の御手洗毅であった。御手洗は胸部検診のためのX線カメラ国産化を考えて1939年取締役に就任。1941年にはX線カメラを製品化し、翌年御手洗が代表取締役社長になった。御手洗は高性能カメラの国産化推進を強く思い、医師免許を返上して覚悟を決めた。1947年にキヤノンカメラ(株)に社名変更。


 2019/10/15 (33 ヒット)

 アレルギーとは、本来体に害を及ぼさないはずのものに対して過剰な免疫反応がおきて、鼻水、じんましん、かゆみなどの症状がおきることをいう。アレルギーの中で、スギやヒノキなどの花粉を外敵と認識して免疫システムが反応してしまうのが「花粉症」である。花粉症は1961年に初めて報告され、1970年代以降患者数をどんどん増加させてきた。今では3人に1人が花粉症という。スギ花粉の場合、スギの葉の先端にできる雄花の中に、花粉の入った袋が何個も入っていて、雄花が成長して開くと袋が破裂して中の花粉が飛び出してくる。花粉の直径は0.03ミリと非常に小さく、一つの雄花に40万個もの花粉が入っている。戦後復興で森林が伐採され、そこに農林水産省の推奨によりスギの苗木が大量に植えられた。スギは成長が速く木材として加工しやすいからである。スギは植えてから30~60年で最も大量に花粉を放出するようになるので、1970年代以降で飛散が増加した。


 2019/10/12 (44 ヒット)

 ある調査結果によると、2017年のレトルトカレーの売上高が、初めて固形のカレールーを超えた。共働き世帯の増加、単身世帯の増加等で、ルーを使って複数人分のカレーをつくる機会が減っているという。2017年のレトルトカレーの売上高は461億円で、固形ルーを5億円上回った。レトルト人気が広まった契機とされるのが2011年の東日本大震災である。現在2000種類以上あるといわれるレトルトカレーで約2割のシェアを占めるらしいのが、ハウス食品の「カリー屋カレー」である。レトルトカレーの大手3社といわれるのが、ハウス食品、エスビー食品、大塚食品である。レトルト食品とは、機密性・射光性を有するパウチ(袋)または容器を用いて、内容物を完全に密閉し加圧加熱殺菌処理を行った食品のことである。一般に入手可能な世界初のレトルト食品は、1969年に大塚食品から全国発売された「ボンカレー」である。これは「3分温めるだけですぐ食べられる」という宣伝文句でヒットにつながった。このボンカレーの生みの親とされるのが、元大塚ホールデイング会長の大塚明彦氏である。1976年に38歳で大塚製薬の社長に就任。その後ヒット商品を連発させ大塚グループの総帥になった。


 2019/10/09 (40 ヒット)

 1964年に開催されたアジア圏初の東京オリンピック・パラリンピックは、日本の戦後復興を世界に知らしめた。新幹線や首都高速など交通インフラも整備された。建築の分野でもいくつもの成果があった。20世紀を代表する名建築としても名高いのが、「国立代々木競技場」である。代々木公園に隣接して第一体育館と第二体育館の2棟からなる。それぞれ水泳とバスケットボールの会場として建設された。設計者は丹下健三である。人々が驚いたのは、彫刻作品のように優美なカーブを描く造形である。第一体育館の屋根は大胆に反り返り、外観を印象深いものにしている。これは2本の柱をケーブルでつなぎ広大な内部空間を生み出す吊り構造の技術による。当時これほど巨大な空間の屋根を吊り構造で支える建築物は世界にも例がなかった。この吊り構造によって、館内には柱が1本もない大空間が広がった。他にも江戸城跡北の丸公園に建設された「日本武道館」がある。屋根のてっぺんに擬宝珠をのせた八角形の建物で、柔道会場として建築された。設計者は山田守。


 2019/10/04 (36 ヒット)

 一度かかるとなかなか完治しにくいとされる「水虫」は、正式には「足白せん」と呼ばれる病気である。白せん菌が皮膚で増殖することで引き起こされる。白せん菌はカビの仲間である。白せん菌は自身の成長や子孫を残すために皮膚を必要とする。それは、白せん菌が皮膚に含まれる「ケラチン」というたんぱく質を分解することで、栄養源となる窒素を得ているからである。皮膚表層の角質層に白せん菌が入り込むと「皮がむける」「水ぶくれになる」「かゆみが出る」といった症状が出る。これらは皮膚の炎症による。白せん菌はヒトの皮膚からはがれ落ちた「あか」の中でも一定期間生存できる。こうした「あか」を踏んで白せん菌に接触することで感染が起こる。プールや温泉などでこうした現象が起こりやすい。なぜなら高湿度環境が必要だから。つまり白せん菌が付着しても、足を乾燥させることによって感染は防止できる。白せん菌は足以外の皮膚にも感染し、水虫と同様の症状になる。水虫は、抗真菌薬を一定期間塗り続けるとか、飲み薬を飲むことで完治できる。


 2019/10/01 (35 ヒット)

 東京駅の丸の内側広場に、鉄道の父といわれる井上勝の銅像が立っていた。しかし現在は駅前広場の大幅改修により像は撤去されている。この像は、100年前の東京駅開業に合わせて設置されたものである。幕末の長州藩士だった井上は、1863年21歳で伊藤博文を含む5人でイギリスへ留学する。イギリスで初めて見る鉄道にほれこみ、ロンドン大学で鉄道路線造りに必要な技術や地質や土木を学んだ。5年後に帰国し明治4年29歳で鉄道寮のトップに就任する。明治5年の新橋―横浜間、日本初の鉄道開業に尽力する。しかし当時、全ての資材は輸入に頼っており、鉄道建設もお雇い外国人に頼らざるを得なかった。井上は日本人だけで鉄道工事ができるようにしたいと考えた。大阪に鉄道技術者養成学校をつくる。やがて関東と関西を結ぶ鉄路の検討を開始、中山道ルートと東海道ルートの2案があり、井上は中山道ルートを選択する。しかし碓氷峠が当時の機関車では無理なことが判明する。工事は碓氷峠の手前まで進めてしまっていた。急きょ東海道ルートに変更する。ただこれまでに中山道ルートで使った残りの予算でやれという条件が出される。努力を重ね、明治22年ついに東海道線650キロが開通した。厳しい予算や期日を守って実現させた。井上はヨーロッパへの鉄道視察中に病気で亡くなる。


 2019/09/28 (36 ヒット)

 地球から一番近い天体、それが「月」である。「お月さま」は太古の昔から私たちを魅了してきた。400年前にガリレオ・ガリレイが初めて望遠鏡を使って月を見た。そして月の表面が地球と同じように凹凸していることに驚いた。仮に地球の直系を40センチとすると月の直径は約10センチになり、地球と月の間の距離は12mになる。しかし地球と月の実際の距離は38万キロもある。月は毎年3~4センチずつ地球から遠ざかっているらしい。つまり昔はもっと近くにいたことになる。その月に人類が足跡を残したのが1961年アポロ11号である。それ以降誰も月に足を踏み入れていない。月がどのようにしてできたのかには3つの説があった。(1)親子説:地球の回転からちぎれたというもの、(2)姉妹説:地球の周りにある微小体が固まったもの、(3)他人説:別のところから来て地球の引力につかまったもの。だが現在最も有力なのが、一つの惑星が地球にぶつかって周囲に溶けたものが飛び散り徐々に集まって月になったというものである。意外なことだが月には水資源があるという。


 2019/09/25 (46 ヒット)

 我々の祖先ホモサピエンスにとって最強で最後のライバル、それが「ネアンデルタール人」であった。かつて私たちは「現在のヨーロッパ人の祖先がネアンデルタール人である」と教わったが、それは誤りだった。30万年前先にアフリカを出てヨーロッパで独自の進化をとげたのがネアンデルタール人である。その10万年後にアフリカで誕生したのがサピエンスである。やがてサピエンスもアフリカを出る。そして中東地域でサピエンスはネアンデルタール人と出会う。両者は約1万年間にわたり同じ土地で暮らし、ライバルとして地球の覇者の地位を争うことになる。屈強な体と高い知能を持っていたネアンデルタール人だが、あるときこつ然と姿を消して絶滅してしまう。サピエンスとネアンデルタール人は、同じ祖先から全く別の場所でそれぞれ進化した人類であった。ただサピエンスの方が道具の革命を起こし、大きな集団をつくって社会を形成し情報を拡散する力を有していたらしい。最新の調査結果では、アフリカの人たちを除いた現在のわれわれ人類には、約2%のネアンデルタール人のDNAが含まれているという。


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